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『萬葉集』巻五と巻十一の贈答歌における〈言葉〉と〈まなざし〉の交差

萬葉集』巻五と巻十一の贈答歌における〈言葉〉と〈まなざし〉の交差

—形式と倫理性の比較分析—

                                   多紀理

 

1.はじめに


 日本最古の歌集である『萬葉集』における贈答歌は、単なる言葉の遣り取りを超え、相手の〈まなざし〉を映し出し、その内心を慮る詩的行為として成立している。巻五及び巻十一に収められた贈答歌群は、成立の社会的背景に大きな相違を抱えながらも、言葉を媒介に互いの〈まなざし〉を交差させるという根本的な精神性を共有している。

 

 巻五は遣唐使の往還や外交的応酬を背景に成立し、堅固な韻律構造と高度な掛詞・縁語の技巧を特徴とする。一方、巻十一に位置する恋愛的贈答歌は、私的情感の機微を繊細に表現し、言葉の遊びや沈黙の間が奏でる心理的交錯を顕著に示す。

 

 本稿は両巻の贈答歌を精読し、〈言葉〉と〈まなざし〉の交差を探ることで、贈答歌が内包する詩的かつ倫理的構造を明らかにすることを目的とする。具体的には、韻律の構成、掛詞・縁語の用法、そして表現の「間」や沈黙の技巧に着目し、両巻に通底する「贈ることの倫理」の核心に迫る。

 

 これにより、古代日本における和歌の贈答行為が、単なる詩的交流に留まらず、社会的規範と美的感受性とが複雑に絡み合う精神文化の一端であったことを再考する。

 

2.巻五における贈答歌の詩的構造と倫理性


萬葉集』巻五において顕著な主題の一つは、異国への旅立ちに際して交わされる贈答歌である。この巻は、国家による遣新羅使遣唐使の派遣に関連する詩群を多く収録しており、そこには単なる私的な別れを超えた、公的使命とそれに伴う倫理的緊張が刻まれている。その中でも、山上憶良による「遣新羅使人に贈る歌」(巻五・891–893番)は、詩的技法と思想性の双方において特筆に値する。

 

巻五・891番に収められた歌は、次の如くである:

 吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき

 

 この一首では、旅立った者がかつて眺めた景物──鞆の浦のむろの木──が詠まれる。その木は「常世にあれど」と詠われ、自然物としての変わらぬ存在を象徴するが、同時に「見し人ぞなき」とあることで、既にその場にいない人物の不在が強く印象づけられる。ここに表れるのは、空間的には共通でありながら、時間的には断絶された視線の非対称性である。歌の詠み手は、かつての共有された場に留まりながら、そこにかつての同伴者がいないという事実を突きつけられる。この対比は、自然の恒常性と人の移ろい、さらには使命を帯びて遠方に向かう者と、その行方を見送る者の立場の差異を象徴的に浮かび上がらせる。

 

次に、巻五・892番では、

 玉たすき畏き君の命もちて遠く離れし君をしぞ思ふ

 

と詠まれている。ここで重要なのは、「畏き君の命もちて」という表現である。「命(みこと)」は、天皇の勅命を意味し、それにより旅立つ者は個人の意志を超えた国家的な任務を帯びていることが示される。この句により、旅立ちは単なる別離ではなく、公的儀礼の一環として、すなわち律令国家の一員として遂行される職責であることが明示される。しかも、「遠く離れし君をしぞ思ふ」という直截な情念の吐露により、その職責の背後にある私的な情感が強調され、歌全体に複層的な倫理性が立ち現れてくる。

 

巻五・893番もまた、

 天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明けくるま夜に鳴く千鳥かも

 

と続き、旅立つ者の遠き道のりに寄せる恋情と孤独が象徴的に詠まれる。「天離る鄙(あまざかるひな)」は、異郷としての新羅を示唆し、また「千鳥」の鳴き声が夜明けの時間に重ねられることにより、時間的移ろいと感情の高まりとが響き合う。ここにも、国家的役割に従う者の内奥に潜む感情の揺らぎが詠み込まれている。

 

 以上三首に通底するのは、景物と感情の織り成す象徴的な構造である。これらの歌は、自然を媒介として心情を投影するのみならず、公的任務と個人的情念の接点を鋭く浮き彫りにする。その点で、巻五の贈答歌は単なる抒情歌ではなく、「歌による倫理的儀礼」の記録であるとも言えよう。山上憶良の作は、和歌における倫理的抒情という新たな可能性を開示しつつ、萬葉集巻五における詩的空間の核を成している。

 

3.巻十一における恋愛贈答歌の〈言葉〉と〈まなざし〉の交差


萬葉集』巻十一は、恋愛にまつわる贈答歌を多数収める巻として知られており、そこに収録された一首一首の間には、単なる感情のやり取りを超えた、視線と言葉とが織りなす繊細な心理の機微が宿っている。本章では、巻十一の贈答歌における〈まなざし〉と〈ことば〉の交差がいかなる詩的・倫理的構造を形成しているかを論じることとしたい。

 

 まず注目すべきは、恋愛贈答歌において「見る/見られる」という視線の動態と、「語る/語られる」という言葉の運動が常に密接に関係している点である。視覚と聴覚、沈黙と発語、現前と不在──これらの対立的構造が、和歌の中で微細に交錯し、詠み手の内面に潜む倫理的逡巡や情感のずれを浮かび上がらせる。

 そのような構造の端的な例として、巻十一・2561番に収められた次の一首を取り上げたい。

 

人言の 繁き間守りて 逢ふともや なほ我が上に 言の繁けむ

 

 この歌は、恋人との逢瀬を願いながらも、それが叶ったとしてもなお「人言(ひとごと)」──すなわち世間の噂──が自らを取り巻くであろうという不安を詠んだものである。「繁き間守りて」という表現において、恋人たちはすでに世間の厳しい視線のただ中に置かれていることが暗示される。ここにあるのは、恋愛の成立が社会的規範の内において常に監視され、測られているという構造である。

 

 さらに注目されるのは、「逢ふともや」と「言の繁けむ」とのあいだに張り詰めた緊張感である。「逢ふ」という行為は視覚的に相手と対面することであり、「言の繁けむ」はその結果として耳にする外部の反応である。この視覚と聴覚の接続は、和歌における「まなざし」の交錯と「ことば」の拡がりを象徴的に示している。逢瀬に至る身体的接触は、ただそれだけでは完結せず、むしろその後に発生する社会的言説によって繰り返し解釈され、再帰的に意識される。すなわち、恋愛とは私的行為であると同時に、言説空間における公的事象でもあるという、古代社会の倫理観がここに表現されているのである。

 

 このような詠みぶりにおいて、贈答歌のことばは、単に愛情の告白や応答として機能するにとどまらない。むしろ、相手とのあいだに〈視線〉と〈ことば〉とがどのように交錯し、ずれ、あるいは重なり合うかという経験そのものを構造化し、詩的言語によって昇華する役割を担っている。この機微は、巻十一において特に顕著であり、同巻の相聞歌群は、単なる情感の流露ではなく、「倫理的まなざしのポエティクス」とも呼ぶべき構造の下に形成されているのである。

 

 また、ここでいう「まなざし」は、単に視覚的なものとして捉えられるべきではない。むしろそれは、相手の存在を内面化し、その視線を自らの想像の中に取り込む行為を含意する。よって、贈答の場におけることばは、自己の想像的他者に向けた投企であり、詠み手の内面における倫理的な応答性の表れともなる。和歌におけるこのような応答性の意識は、視線とことばの関係を通じて、他者と自我の相互構築の様を如実に示す。

 

 このように巻十一の贈答歌を眺めるとき、そこに展開されているのは単なる恋愛感情の表白ではなく、社会的規範、倫理的葛藤、そして言語的表象の相互作用である。恋愛というもっとも私的な営みが、最も公的な形式──すなわち和歌──によって伝えられるとき、詠み手はその内的葛藤を詩的言語へと転換する必要に迫られる。巻十一は、そのような詩的行為の舞台として、視線とことばの微細な交錯を通じて、感情と倫理とを架橋する極めて豊かな詩的空間を形成しているのである。

 

4.巻五と巻十一の贈答歌の比較考察 — 形式と倫理性を軸に


 巻五と巻十一に収められる贈答歌は、成立した社会的背景や主題の相違にもかかわらず、共に〈言葉〉と〈まなざし〉が交差する場としての和歌の本質を示す。これらの歌群を比較することで、和歌が担った詩的機能と倫理的役割の両面が浮き彫りとなる。

 

 第一に、形式面において両巻は共通の韻律構造を基盤としつつも、用いられる技巧の性質に違いをみる。巻五の贈答歌は、外交的緊張のもとでの慎重な言葉遣いが要求され、掛詞や縁語の用法は堅牢かつ洗練されている。形式的に整った上下句の連関が、相手への礼節と敬意を詠み込み、言葉を媒介に〈まなざし〉を相互に映し出す役割を果たす。

 

 対して巻十一は、恋愛の私的情感を映し出す場として、言葉の遊びや曖昧な含意、沈黙の「間」を多用し、柔軟かつ多層的な表現が特徴である。ここでは韻律の変化や技巧的な言葉の選択により、詠み手と受け手の〈まなざし〉の交錯が繊細に織り込まれる。沈黙の部分における心情の読み合いは、言語化されない感情の共鳴を可能にし、言葉の裏に隠された深層の交流を創出する。

 

 第二に、両巻の贈答歌に共通する倫理性とは、贈ること自体が相手への敬意や配慮を含む精神的行為であるという点にある。言葉は単なる伝達手段にとどまらず、相手の〈まなざし〉を慮る詩的な応答として成立する。これは、「贈ることの倫理」と呼ぶにふさわしい、和歌に内在する精神性の表出である。

 

 外交的贈答歌においては、礼節を保ちながら相手の立場を尊重し、国家間の緊張を詩的に緩和する機能を果たす。一方、恋愛贈答歌では、互いの心の揺らぎを繊細に察し、相手の感情を慮った言葉の選択や沈黙が深い共感を生む。両者において、詩的〈言葉〉は〈まなざし〉に応じるための媒介であり、贈答行為の倫理的側面を形づくっている。

 

 第三に、両巻の贈答歌が示す詩的技法の違いは、社会的文脈と精神性の相違を映し出す鏡でもある。巻五の堅牢な韻律や技巧は、公的儀礼と外交の場での言葉の厳格さを反映し、社会秩序の維持に寄与した。これに対し、巻十一の自由で遊び心ある技巧は、個人の感情と主体性の表出を可能にし、私的な心情交流の深まりを促す。

 

 総じて、両巻の贈答歌は異なる社会的役割と詩的性格をもちつつ、言葉を介したまなざしの交差が和歌の本質的機能であることを示す。和歌は「言葉を贈ること」を通じて、単に感情を伝えるのみならず、相手の存在を尊び、その心を慮る倫理的な営みとして深化したのである。

 

5.結語


 本稿において、巻五と巻十一の贈答歌を比較し、形式的特徴と詩的技巧、ならびに内在する倫理性の双方に着目した分析を試みた。外交的文脈に根ざす巻五の堅牢かつ礼節を重んじる言葉遣いと、恋愛という私的情感を繊細に映す巻十一の柔軟で遊戯的な表現は、一見対照的に見えるが、両者は共に〈言葉〉と〈まなざし〉の交差により「贈ることの倫理」を体現している。

 

 和歌は、言葉という媒介を通じて相手の〈まなざし〉を深く慮り、心を交わす詩的行為である。これは単なる情感表現を超え、古代日本の社会的・文化的規範と美的感受性が複雑に絡み合う精神文化の一端であり、贈答歌はその最も典型的な形式と位置づけられる。

 

 ゆえに、本稿の比較考察は、和歌の贈答行為の本質を理解するうえで重要な視座を提供し、今後の和歌研究においても言葉とまなざしの相互作用に注目することの有用性を示すものである。

 

参考文献


大岡信稲畑汀子編『萬葉集岩波書店、1990年(初版)。
・飯豊毅一『萬葉集講義』角川書店、1961年。
・山本順伯『萬葉集の研究』岩波書店、1975年。
柿本人麻呂集注釈(国文学研究資料館編)。

 

 いくつかの事情が重なりまして、やや急ぎ足で筆を執りました。不備や見落としなどがございましたら、どうぞご指摘いただけますと幸いに存じます。

 

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