百人一首 57
新古今和歌集 巻十六 雑上 1499
はやくより童友だちに侍りける人のとしごろへてゆきあひたるほのかにて七月十日のころ月にきほひてかへり侍りければ
紫式部
めぐり逢ひて見しや
それとも分かぬ間に
雲隠れにし
夜半の月影

口語訳『最新全訳古語辞典』 東京書籍より
空を行きめぐり、それかともはっきり見分けないうちに、雲の間に隠れてしまった真夜中の月だよ(久しぶりにめぐり逢ったのに、懐かしい友人であったのかどうか、見分けられないうちに、あなたは姿を隠してしまったのですね。)
意訳
題詞
十歳前後の幼き日より身近にお仕えしていたお方――藤原寛子様に、数年の時を隔てて、思いがけず再び相まみえることがありました。
その再会から、ほんのわずかな年月を経ぬうちに、七月十日の月と競い合うかのようにして、藤原寛子様は、月の世界へと帰られてしまわれました。
作者 紫式部
幼き頃、親しく語らい遊んだお方と、のちに宮中において再びお目にかかることがありました。成人してからの再会であったため、そのお方が、かつて幼少の日々をともにした方であるとは、しばらくのあいだ気づかずにおりました。
しかし、再び心を通わせる間もないほどのうちに、そのお方は、まるで夜半の月が雲に隠れるように、はかなくこの世を去られてしまわれました。夜更けに月が雲に覆われているのを目にするたび、極楽浄土へと赴かれたそのお方の面影が、おのずから胸に浮かんでまいります。
解説
紫式部は、一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えていました。
同じ頃、和泉式部とその娘である小式部内侍も、同じく彰子に出仕していました。
本歌の詞書には「七月十日」に人が亡くなったことが示されています。
この日付を手がかりとして史料をひもとくと、藤原道長の三女である藤原寛子が、七月九日に薨去していることが確認されます。
藤原寛子と小式部内侍は、奇しくも同年に生まれ、同年に亡くなり、いずれも二十七歳という若さでした。紫式部が彰子に仕えていた当時、なお幼少であったと考えられるのは、藤原寛子と小式部内侍の二人であったと見るのが自然でしょう。
こうした点から、『新古今和歌集』に見える「七月十日」の歌は藤原寛子を、また『紫式部集』に記された「十月十日」の歌は、小式部内侍を悼んだものと、それぞれ解されることが多くあります。
人物略伝
紫式部
生没年未詳。973年頃から1031年頃の生とする説があります。
中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人。
1006年から1012年頃にかけて、一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えました。
藤原寛子(かんし)
999年生、1025年7月9日没(享年27)。
藤原道長の三女。母は源明子。
敦明親王(小一条院)の妃で、別名を高松殿女御といいます。
小式部内侍(こしきぶのないし)
999年頃生、1025年11月頃没(享年27とされます)。
女房三十六歌仙の一人。
父は橘道貞、母は和泉式部。
藤原公成の子を出産した際に亡くなり、和泉式部は哀傷の歌を詠みました。
和泉式部
978年頃生、没年未詳。
中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人。
1008年から1011年頃にかけて、藤原彰子に出仕しました。
藤原彰子
988年生、1074年10月3日没(享年77)。
一条天皇の皇后(中宮)。後一条天皇・後朱雀天皇の国母。
紫式部、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔らを擁し、華やかな文芸の場を形成しました。
一条天皇
980年6月1日生、1011年6月22日崩御(享年32)。
1011年6月13日に譲位、同年6月19日に出家し、
6月22日に崩御。7月8日の夜に火葬されました。
出典
『紫式部集』所収
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