雲心月性...

慈愛する和歌を拙筆くずし字で紹介致します。

とはずがたり 前斎宮

 斎宮は二十に余り給ふ。ねびととのひたる御さま、神もなごりを慕ひ給ひけるもことわりに、花と言はば、桜にたとへても、よそ目はいかがとあやまたれ、霞の袖を重ぬる隙も、いかにせましと思ひぬべき御ありさまなれば、まして隈なき御心の内は、いつしかいかなる御物思ひの種にかと、よそも御心苦しくぞおぼえさせ給ひし。
 

 御物語ありて、神路の山の御物語など、絶え絶え聞こえ給ひて、「今宵はいたう更け侍りぬ。のどかに明日は嵐の山の禿なる梢どもも御覧じて御帰りあれ」など申させ給ひて、我が御方へ入らせ給ひて、いつしか、「いかがすべき、いかがすべき」と仰せあり。思ひつることよと、をかしくてあれば、「幼くより参りししるしに、このこと申しかなへたらむ、まめやかに心ざしありと思はむ」など仰せありて、やがて御使に参る。

 

 ただおほかたなるやうに、「御対面うれしく。御旅寝すさまじくや」などにて、

 忍びつつ文あり。氷襲の薄様にや、

 

  知られじな今しも見つる面影の
        やがて心に掛かりけりとは

 

 

  

 

 更けぬれば、御前なる人もみな寄り臥したる。御主も小几帳引き寄せて、御殿籠りたるなりけり。近く参りて、ことのやう奏すれば、御顔うち赤めていとものものたまはず、文も見るとしもなくて、うち置き給ひぬ。「何とか申すべき」と申せば、「思ひ寄らぬ御言の葉は、何と申すべき方もなくて」とばかりにて、また寝給ひぬるも心やましければ、帰り参りて、このよしを申す。「ただ、寝給ふらむ所へ導け、導け」と責めさせ給ふもむつかしければ、御供に参らむことはやすくこそ、しるべして参る。

甘の御衣などはことごとしければ、御大口ばかりにて、忍びつつ入らせ給ふ。

 

 まづ先に参りて、御障子をやをら開けたれば、ありつるままにて御殿籠りたる。御前なる人も寝入りぬるにや、音する人もなく、小さらかに這ひ入らせ給ひぬる後、いかなる御事どもかありけん。


 うち捨て参らすべきならねば、御上臥ししたる人の側に寝れば、今ぞおどろきて、「こは誰そ」と言ふ。「御人少ななるも御いたはしくて、御宿直し侍る」と答へば、まことと思ひて物語するも、用意なきことやとわびしければ、「眠たしや。更け侍りぬ」と言ひて、空眠りして居たれば、御几帳の内も遠からぬに、いたく御心も尽くさず、はやうち解け給ひにけりとおぼゆるぞ、あまりに念なかりし。心強くて明かし給はば、いかにおもしろからむとおぼえしに、明け過ぎぬ先に帰り入らせ給ひて、「桜は匂ひはうつくしけれども、枝もろく、折りやすき花にてある」など仰せありしぞ、さればよとおぼえ侍りし。

 

(意訳)

 斎宮は二十歳を過ぎていらっしゃる。成熟して容姿が整いなさっている御様子は、伊勢の神も名残惜しくお思いになったのももっともで、花と言ったならば、桜にたとえても、はた目はどうして区別できようかと思わず見間違いをし、霞の袖を重ねる時もどうしたらよいのだろうと思ってしまうに違いない御様子であるので、まして目の届かないところはない後深草院のお気持ちの内は、早くもどのようなもの思いの種であるのだろうか、よそながら斎宮がお気の毒に思われなさった。


 お二人はお話をなさって、斎宮は神路の山のお話など、とぎれとぎれに申し上げなさって、後深草院は「今夜はひどく更けてしまいました。ゆっくりと明日は嵐山の禿げた梢どもも御覧になってお帰りください」など申し上げなさって、御自分のお部屋にお入りになって、早くも、「どうするのがよいか、どうするのがよいか」とお言葉がある。私は、予想したとおりだと、おかしく思っていると、「そなたが幼い時から参上した証拠として、この恋の思いを実現させているような時は、本当に私に対して誠意があると思おう」など後深草院のお言葉があって、私はさっそくお使いに参上する。

 

 ただ形だけの挨拶のようにして、「御対面がうれしく。旅寝は興醒めか」

 などの口上で、こっそりと後深草院からのお手紙がある。氷襲の薄様だろうか、

 

  分らないだろうな。今し方見たあなたの面影が
           そのまま心に焼き付いたとは。

 

 夜が更けてしまったので、斎宮の御前にいる人も皆物に寄り掛かって横になっている。御本人も小さな几帳を引き寄せて、おやすみになっているのであった。私は斎宮の近くに参上して、事情を申し上げると、斎宮はお顔をさっと赤くして、まったく何もお話しにならず、手紙も見るともなくて、お置きになってしまった。「どのようにお返事申し上げるのがよいか」と申し上げると、「思い掛けないお言葉は、なんとも申し上げるのにふさわしい言葉もなくて」とだけで、またおやすみになってしまったのもおもしろくないので、戻って参上して、後深草院にこの旨を申し上げる。「ともかく、おやすみになっているだろう所へ案内せよ、案内せよ」と急き立てなさるのも煩わしいので、お供として参上するようなことは容易で、案内をして参上する。

 

後深草院は甘の御衣などは大袈裟であるので、御大口袴だけで、人目を忍びながらお入りになる。

 

 私がまづ先に参上して、御襖をそっと開けたところ、斎宮は先ほどのままでおやすみになっている。御前にいる人もぐっすり寝てしまったのだろうか、声を立てる人もいず、後深草院は身体を縮めて這い入りなさってしまった後は、どのような御事どもがあったのだろうか。


 そのままにして置き申し上げてよいことでもないので、斎宮の御宿直をしている人の側に私が寝ると、その人は今になって目をさまして、「あなたは誰か」と言う。「伺候する人も少ないのもお気の毒で、御宿直をしております」と私が答えると、本当だと思ってその人があれこれ話をするのも、心配りがないことかと心苦しいので、「眠たいなあ。夜が更けてしまいました」と言って、私は寝たふりをしてじっとしていると、御几帳の内も遠くないので、後深草院はそれほど御苦労もなさらず、斎宮後深草院に早くもうち解けなさってしまったと思われるのは、あまりに拍子抜けであるよ。斎宮が気丈に拒んで朝まで明かしなさったならば、どんなにかおもしろかっただろうと思われたのに、後深草院はすっかり夜が明けないうちにお帰りになって、「桜は色は美しいけれども、枝がもろく、折りやすい花であるよ」などお言葉があったのは、思ったとおりだと感じられた。

 

(解説)

 作者の二条は、後深草院の寵愛を受けているのですが、後深草院の女房であって、妻ではありません。『源氏物語』の光源氏の正妻は葵の上ですが、その他に恋愛関係にある朧月夜の君や六条御息所などの女君たちがいて、さらに光源氏の寵愛を受けている女房が何人かいました。二条は女房という立場ですから、後深草院の恋愛の手引きをしているというわけです。この話は一二七四(文永十一)年のことなので、この年、二条は十七歳です。


 後深草院(:一二四三〜一三〇四)については、「弁内侍日記」で幼少期を、また、一二五九(正元元)年の春と秋の明暗で、元服後を読んでいます。この年、後深草院は三十二歳です。幼少期の望粥の頃からの二十数年の時の流れは(年表)を参照してください。

 

 斎宮とは、天皇の名代として伊勢神宮に奉仕した未婚の内親王のことです。斎宮歴史博物館に詳しい説明があります。前斎宮の愷子内親王(がいし:一二四九〜一二八四)は、一二六二(弘長二)年から一二七二(文永九)年まで斎宮でした。十四歳から二十四歳までです。「神もなごりを慕ひ給ひける」とあるように、斎宮を退いてからすぐには都に戻らなかったようです。前斎宮は、後深草院の六歳年下の異母妹だということなので、この年、二十六歳です。「ねびととのひたる御さま」には、女性の結婚適齢期は十六歳から二十二歳であったらしいという注釈があります。また、当時の標準から言えば女盛りはとうに過ぎているという注釈もありますが、十四歳から二十四歳まで斎宮であったので、酷な注釈ですね。二条が後深草院の意向を伝えた時、「御顔うち赤めていとものものたまはず、文も見るとしもなくて、うち置き給ひぬ」とありましたが、『源氏物語朝顔の巻で、加茂の斎院を退いた姫君について「世づかぬ御ありさまは、年月に添へても、もの深くのみ引き入り給ひて、え聞こえ給はぬ」と語られているように、十数年の間、神にお仕えしていた身の上の人が、恋のやり取りが不得手であるのは、当然のことです。
 

 前斎宮の母親は二条局と呼ばれた女性だということです。『とはずがたり』の作者の二条とのつながりはありません(略系図)。

 

 この後深草院と前斎宮との対面の場所は嵯峨殿(亀山殿)です。この御所は後深草院の父の後嵯峨院が、一二五五(建長七)年に小倉山東南の亀山の麓、現在の天龍寺あたりに造営したものです。「亀山」というのは小倉山の東南の尾が亀の姿に似ているからということで、天龍寺の西にある嵐山公園(亀山地区)の所在地は、「嵯峨亀ノ尾町」です。『とはずがたり』では「嵯峨殿」で出てきますが、「亀山殿」の呼び方が一般的であるようです。『増鏡』「おりゐる雲」には「嵯峨の亀山の麓、大堰川の北の岸に当たりて、ゆゆしき院をぞ造らせ給へる。小倉の山の梢、戸無瀬の滝も、さながら御垣の内に見えて、わざとつくろはぬ前栽も、おのづから情けを加へたる所柄、いみじき絵師といふとも筆も及びがたし」とあって、小倉山の梢がすぐ目の前に見えたことが分かります。借景だったのでしょう。『徒然草』には、五一段に亀山殿の水車の工事の話が、二〇七段に亀山殿の工事中に出た蛇の話があります。


 「花といはば、桜にたとへても、よそ目はいかがとあやまたれ、霞の袖を重ぬる隙も、いかにせましと思ひぬべき御ありさま」は、斎宮の美しさをたとえた表現ですが、もう一つ分かりにくいです。「よそ目はいかが」は「よそ目はいかが(区別できようか)」という補いをして、斎宮を桜にたとえても見間違いするくらいに斎宮は桜のように美しいと解釈するのが分かりやすいです。桜は最上の美しさのたとえだということです。「霞の袖を重ぬる隙も、いかにせましと思ひぬべき」は、桜は霞が隠すものであるけれども斎宮の顔を袖が隠している間も、見続けていたくて「いかがせまし」という思いになるという解釈もできますが、もう一つ分かりにくいです。斎宮に男が添い寝をして袖を重ねるような時には、どうしたらよいのだろうと、斎宮がとまどってしまうほどだという解釈はおもしろいです。


 翌朝の「桜は匂ひはうつくしけれども、枝もろく、折りやすき花にてある」という後深草院の言葉は、斎宮の美しさを桜にたとえた言葉と対応しています。作者が後深草院の言葉を桜で合わせたのか、あるいは、後深草院の言葉に合せて、斎宮の美しさを桜にたとえたのか、どちらなのでしょうか。


 「禿なる梢」とは、葉の落ちた梢ということです。おもしろい表現です。嵐山が大堰川を挟んですぐ目の前なので、こういう言葉が出たのでしょう。


 「薄様」は、恋文に用いられる薄い紙です。「氷襲」は襲の色目で、表も裏も白です。この話は、一二七四(文永十一)年十一月十日余りということになっています。「奏す」は、ここでは斎宮に申し上げることです。

 

 『とはずがたり』の本文の書き方に分かりにくい箇所があります。字下げをしておいた箇所は、後深草院から斎宮への手紙や、後深草院の服装などをあらかじめ説明しておきたいということで、書かれているのでしょう。「ただおほかたなるやうに」で始まる部分は、「御対面うれしく。御旅寝すさまじくや」が後深草院からの伝言で、「知られじな今しも見つる面影のやがて心にかかりけりとは」が手紙の内容です。「甘の御衣」で始まる部分は、後深草院の服装の説明で、「甘の御衣」が上皇が平服として着用する直衣、「御大口袴」が束帯の時に表袴(うへのはかま)の下にはく裾の広い袴です。ここではくつろいだ姿であることを言っています。

 

 平安時代には「色好み」という言葉がありました。恋愛のさまざまな情趣を深く理解して洗練された恋愛ができること、また、その人、男にも女にも言います。容貌・態度・性格・人柄が優れ、和歌や音楽にも堪能で、恋に一途に生きる人を意味し、貴族らしい雅びな趣味の持ち主であると賞賛される、恋愛の情趣を尊ぶ美的理念でした。しかし、この後深草院の振る舞いや「桜は匂ひはうつくしけれども、枝もろく、折りやすき花にてある」という発言を見ていると、「くまなき御心」という後深草院のお心は、古語の「色好み」ではなく現代語の「好色」に近いように感じられます。

 

年表

略系図

  

 

 

 

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