雲心月性...

慈愛する和歌を拙筆くずし字で紹介致します。

新古今和歌集  恋一  1034 (89)

玉の緒よ絶えなば

絶えねながらへば

忍ぶることの

弱りもぞする

(新古今和歌集  恋一  1034)(89)

 

 

式子内親王(多紀理Wikipedia日本語版推敲更正)

 式子内親王(しょくし/しきし(のりこ)ないしんのう、久安5年(1149年)- 建仁元年1月25日(1201年3月1日))は、日本の皇族で、賀茂斎院を務められた方です。新三十六歌仙および女房三十六歌仙の一人であり、後白河天皇の第三皇女として知られています。母は藤原季成の娘、藤原成子で、守覚法親王、亮子内親王(殷富門院)、高倉宮以仁王とは同母兄弟にあたります。また、高倉天皇は異母弟にあたります。内親王は萱斎院、大炊御門斎院とも称され、法号は承如法です。

経歴


 平治元年(1159年)10月25日、内親王は斎院に卜定され、賀茂神社に奉仕されました。この奉仕は約10年間続きましたが、嘉応元年(1169年)7月26日に病のため退下されました。その後、母の実家である高倉三条第に身を寄せ、次いで父・後白河院法住寺殿内(萱御所)を経て、遅くとも元暦2年(1185年)正月までには、叔母である八条院暲子内親王のもとに移られました。同年7月から8月にかけて、元暦大地震とその余震で都が混乱する中、内親王八条院に留まり、准三宮宣下を受けられました。八条院での生活は、少なくとも文治6年(1190年)正月まで続きました。

 その後、八条院とその猶子である姫宮(以仁王の王女、式子内親王の姪)を呪詛したとの疑いがかけられ、八条院からの退去を余儀なくされました。内親王は白河押小路殿に移り、父・後白河院の許しを得ることなく出家されました。

 建久3年(1192年)、後白河院崩御により、大炊御門殿などが遺領として譲られましたが、大炊御門殿は九条兼実に事実上横領され、建久七年の政変で兼実が失脚するまで、内親王が居住することは叶いませんでした。建久8年(1197年)には、蔵人大夫・橘兼仲夫婦の託宣事件に連座し、洛外追放が検討されましたが、実際には処分は行われませんでした。

 正治元年(1199年)5月頃から内親王は体調を崩され、年末にかけて病状が悪化しました。正治2年(1200年)には後鳥羽院の要請に応じて百首歌を詠み、藤原定家に披露されました。しかし、その後間もなく病状が悪化し、東宮・守成親王(後の順徳天皇)を猶子とする計画があったものの、病のため実現せず、建仁元年(1201年)1月25日に薨去されました。享年53歳でした。

 歌人としての内親王は、歌合や定数歌における活動記録は極めて少なく、現存する作品も400首に満たないものの、その3分の1以上が『千載和歌集』以降の勅撰集に収録されています。

逸話


藤原定家との関係

 藤原俊成の子である定家は、治承5年(1181年)正月に初めて三条第に内親王を訪ね、それ以後も度々内親王を訪問しました。内親王家では、姉の竜寿に仕える家司のような役割を果たしていたと伝えられています。定家の日記『明月記』には内親王に関する記事が頻繁に登場し、特に内親王薨去の前月にはその詳細な病状が頻繁に記されています。しかし、内親王薨去については、1年後の命日まで一切触れられておらず、その表現が意味深なものとして捉えられています。このことから、両者の関係が非常に深かったのではないかとの推測がなされています。

 後深草院は、西園寺実氏が定家自身から聞いた話として、

   いきてよもあすまて人はつらからし 此夕暮をとはゝとへかし

— 『新古今和歌集』 巻第十四 恋歌四

 この式子内親王の恋歌は、百首歌として発表される前に、定家に贈られたものだとされています(しかし、『新古今和歌集』の撰者名注記によれば、定家はこの歌を高く評価しておらず、撰者名にも記載されていません)。こうした背景から、やがて定家と内親王が密かな恋愛関係にあったという説が広まり、「定家葛」に関する伝承や、金春禅竹の代表作である謡曲『定家』などの文芸作品が生まれました。また、そのバリエーションとして、定家の醜い容貌を理由に内親王が冷たくあしらった、相思相愛であったが後鳥羽院に仲を裂かれた、定家の父・俊成も二人の関係を知って憂慮していた、などの説も派生しましたが、いずれも後代の伝聞を元にしたものであり、史実としての文献上の根拠はありません。15世紀半ばから語り伝えられている「定家葛の墓」とされる五輪塔と石仏群が、現般舟院陵の西北にありますが、後白河天皇より相続した白河常光院からは遥かに離れており、その根拠は不確かです。

 恋愛感情とは別に、定家が式子内親王について記す際、「薫物馨香芬馥たり」「御弾箏の事あり」といった表現で、内親王の香りや音楽に触れることが多くありました。そのため、定家が作ったとされる『松浦宮物語』中の唐国の姫君の人物設定が、内親王に由来する「高貴な女性」のイメージを反映しているのではないかとの指摘もあります。ただし、「云々」という表現は伝聞を示すものであり、必ずしも定家の直接の感想ではないと考えられます。

 

法然との関係

 法然が「聖如房」または「正如房」と称される高貴な尼に対して長文の手紙を送ったことが伝えられていますが、この尼が式子内親王であるとする説があります[* 13]。この説によれば、内親王の出家時の導師が法然であった可能性や、内親王法然に密かに思いを寄せていたという推測もされています。

歌壇における評価

 式子内親王は、『新古今和歌集』に多数の歌が収められており、この時代を代表する女流歌人と広く認識されています。歌合などの歌壇行事にほとんど参加記録がない内親王がこのような地位を得た理由として、藤原俊成に師事していたこと[* 14]や、その子・定家との交流があったことが挙げられます。これにより、当時の歌壇の主流に直接触れる機会を持っていたとされています。後鳥羽院は、近世の優れた歌人として九条良経慈円と共に内親王を挙げ、「斎院は殊にもみもみと詠まれき」と賞賛しました。

近現代の評価

 式子内親王の歌に対する評価は、技巧的かつ自然観照的、または定家的かつ西行的など、両極端に分かれる傾向があります。その抒情性については、和泉式部的な激情から玉葉風雅的な「すみきった抒情」へと純化された中間に位置すると考えられています。また、本歌取りの手法に着目して、主知的な宮内卿と情緒的な俊成卿女の中間、やや宮内卿寄りと分析する見解もあります。さらに、古歌からの本歌取りだけでなく、『和漢朗詠集』などの漢詩から題材を得た歌も少なくありません。制約の多い生活の中で、作品のほとんどが百首歌という形式で創作されており、虚構の世界に没入する姿勢がこれらの特徴の背景にあるとされています。

別府観海寺温泉の伝承

 大分県別府市の観海寺には、式子内親王が同地で葬られたとの口承があります。橘兼仲の託宣事件に連座して都を追われた内親王は、領主・大友能直の内室である風早禅尼が中興した尼寺観海寺において、尼宮承如法として晩年を過ごし、亡き後には同地で荼毘に付されたとされています。同地に建つ現観海禅寺には式子内親王の墓、その西南の山中には風早禅尼が内親王を荼毘に付した塚と称される遺跡もあり、観光コースにも取り入れられています。記録上では、京都での病死が確実視される式子内親王が別府で晩年を過ごしたという事実は確認されていませんが、託宣事件に関連して内親王や他の関係者の追放先として別府が検討された可能性が指摘されています。

 また、広島県尾道市の光明坊には、「如念」と称される式子内親王のものと伝わる五輪塔も存在します。

 


 

tagiri.hatenablog.com

 

 

ploom-x-club.clubjt.jp

PR