雲心月性...

慈愛する和歌を拙筆くずし字で紹介致します。

古今和歌集 巻一  春上  2

古今和歌集 巻一  春上  2

紀貫之

春立ちける日よめる   

 

袖ひちてむすびし

水のこほれるを

春立つ今日の

風やとくらむ

 

古今和歌集 片桐洋一訳  笠間書院


暑いさなか、袖が濡れんばかりにして手ですくった、

あの山の清水が冬には凍っていたのを、

今日、この立春の風が解かしていることだよ。

 

意訳


題詞

立春に寄せて、ふたたび思ひ起こさるること」
――春となりし日、わが娘が遥けき天へと旅立ちしことを思ひ詠みたる歌

作者:深き哀しみに沈みたまふ紀貫之

 

 わが愛しき三歳の娘は、冬の日にその命を終へてしまひました。
娘を失ひしのち、我が身はひたすら涙に暮れ、衣の袖はこの冬の間じゅう、氷りついたままでございました。

 けふはいとめでたき立春。春の息吹は、凍りつきし袖を解きほぐしてくれるのでせうか。
 されど涙はとどまることを知らず、袖はなお、涙にひたされております。

 あの日、娘が天へと召されたとき、両の手に水をむすぶやうに、そっと亡骸を抱きしめますと、
 三つの子の小さき身は、氷のやうに冷たくなってゐました。

 その掌は小さな拳をきつく結んだまま、幼き身は凍りつくやうにして逝ってしまったのでございます。
 わたくしは娘の髪を梳き直し、新しき衣を着せ、帯を結ひ、涙にくれながら抱き寄せておりました。

 あゝ、春の風よ。
 どうか娘の氷りつきし身を解きほぐし、よみがへらせては下さいませぬか。
 せめて、この胸を苛む深き悲しみを、ひとしずくなりともほどいて下さいませ。

 

解説


 紀貫之(872?〜945?)は、『古今和歌集』の撰者として広く知られております。
 また『土佐日記』において、土佐にて娘を失ひし悲しみを、女性の姿に仮託し仮名文字にて綴ったことは、広く伝へられております。

 本歌の題詞に「春立ちける日」とあるは、単に「立春となった日」との意にとどまらず、
「春に、遥けき天へと旅立ちし日」あるいは「天に旅立ちし人を思ひ偲ぶ日」といった、重層的な意味を孕むと解されませう。

「袖ひちて」とは袖がぐっしょり濡れるさまにて、涙による濡れを暗示いたします。
また「むすびしみづのこほれるを」には、多義の妙が潜んでをります。

「むすぶ」には、水を両手ですくふ意と、髪や帯を結ぶ意が響き合ひ、
「みづのこ」は「三つの子」と掛詞をなして、娘の年齢を示し、
「こほれるを」は、幼き身が氷りつくやうに亡くなった有様を描き出します。

 かくして一句のうちに、娘の齢・姿・父の仕草が重ね合はされてゐるのでございます。

 そして結句「春立つ今日の風やとくらむ」は、立春の風が娘を奇跡のやうに蘇らせてくれることを願ふ心とも、
 また、父の深き嘆きを春風がひとしずくなりとも解きほぐしてくれることを希ふ心とも受け取られます。

 この歌には、大粒の涙にくれながら春の風に身を任せる貫之の姿が、心の襞にまで響くほど切々と描かれてゐるのでございます。

 


 

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