「宮仕え」に対する当時の見方
大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の紫式部ですが、彼女は夫に先立たれてシングルマザーとなった後、宮仕えを始めています。
彼女のように、宮中に仕える女性を「女房」と呼びました。
女房たちは住み込みの部屋(局)を与えられ、身分や出自によって、上臈(じょうろう)・中臈(ちゅうろ)・下臈(げろう)に分かれていたとされています。
上臈は主に二~三位以上の身分でした。四~五位の紫式部や清少納言は中臈の女房となります。
清少納言(土佐光起画『清少納言図』・Wikipediaより)
さて、天皇の後宮に仕える女房という仕事は晴れがましい仕事だと思われがちですが、研究者たちは「当時の貴族にとって必ずしも名誉なことではなかった」と指摘しています。
実際、清少納言も『枕草子』で、宮仕えを軽々しいこととする考え方が世間にあったと述べています。
その原因の一つは、とかく女房生活では男女関係が乱れやすい傾向があったからだとされています。
さらに、当時の貴族の女性たちは、家族以外の男性と直接顔を合わせることを直面(ひたおもて)といって嫌っており、タブー視していたと考えられています。
彼女たちは実父や夫、同腹の兄弟たち(母同じである兄や弟)以外に顔を合わせることを極力避けていたのです。
しかし宮仕えに出た以上、訪問者の取次や文書の往還などで、直面することも覚悟しなければなりません。
よって、深窓の女性が人の目線ににわが身をさらす恥辱にも耐えなければならなかったという側面があったと考えられます。
紫式部の「欠勤」の理由は?
上記のような理由からか、紫式部も宮仕えを始めてから間もなく、突然実家へ帰ってしまってそのまま半年以上も「引きこもり」の状態になっています。
『紫式部日記』を読むと、彼女の「欠勤」の原因は宮中の人間関係にあったのではないかと推測できますが、もしかすると、今述べたように宮仕えという職場環境ならではの苦悩・苦痛があったのかも知れませんね。
初出仕から2~3年が過ぎた寛弘5 (1008)年の秋、式部は次のように呟いています。
今より後のおもなさは、ただなれになれすぎ、ひたおもてにならむやすしかしと、身のありさまの夢のやうに思ひ続けられて、あるまじきことにさへ思ひかかりて、 ゆゆしくおぼゆれば、目とまることも例のなかりけり。
(これから私も厚かましくなって、ただ宮仕えに慣れに慣れすぎて、男性と直接、顔を合わせることも平気になるのだろうと、我が身のありさまが夢のように思い続けられて、あってはならないことまで想像してしまって、怖くなってしまい、いつものことながら眼前の儀式も目に入らなくなってしまった)
先に述べたような、「直面」のがもたらす苦痛のことを知ってからこの文章を読むと、当時の彼女の気持ちがより深く理解できる気がします。
参考資料:
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