その色の草とも見えず
枯れにしをいかに言ひてか
けふはかくべき
小馬命婦
(後拾遺和歌集 巻第一 春上 908)
【意訳】あなたが持ってきた葵の葉は、あまりに枯れしなびて葵だと分かりませんでした。今日は何をしに来られたのですか?枯葉しか持って来なかった言い訳ですか?
平安時代の才女を二人挙げるとすれば、清少納言と紫式部を挙げる人が多いのではないだろうか。
もちろん、王朝文学全盛の時代であるので、好みや選考の視点によって候補となる人物は少なくないとも考えられる。しかし、やはり、現代まで伝えられている「枕草子」と「源氏物語」の著名度は圧倒的といえる。
さらに、清少納言と紫式部が対立関係にあったらしいといった話もあって、その興味からも二人の存在が際立ってくる。
確かに、一条天皇の御代、ともに中宮となる定子と彰子をめぐる権力闘争は激しいものであった。( 正しくは、彰子が中宮になった時には、定子は皇后となっている。)
清少納言が仕えた定子の実家は、関白道隆の中関白家。紫式部が仕えた彰子の父は道長で、後に御堂関白家と呼ばれることになる。道隆と道長は兄弟であるが、道隆が没した後、その子らと道長は激しい権力闘争のあと中関白家は没していく。
定子は、一条天皇の第一皇子を儲けているが、九歳年下の彰子の生んだ皇子に後継者の地位を奪われている。中宮(皇后と同位)が生んだ第一皇子が後継から外されるのは極めて異例なことで、道長の権力のすさまじさが窺える。
そして何よりも、定子は第三子の出産のため、二十五歳の若さで世を去っているが、彰子は八十七歳までの長寿に恵まれ、二人の天皇の母となっている。
当然、定子・彰子に仕えた二人にも、激しい対抗意識があったと考えてしまいがちであるが、実際は少し違う。
まず第一に、清少納言と紫式部は一度でも顔を合わせたことがあったのだろうか。少なくとも、交流というほどの出会いはなかったと考えられる。
紫式部の生没年も確定しがたいので、年齢等も推定になるが、清少納言の方が七歳ほど年上である。(四歳あるいは十二歳という説もある)
紫式部も受領の家柄であるが、若い頃の消息は定かでないが、母親とは早くに死別している。学問は父親の薫陶を受けて和歌ばかりでなく漢学もよく学んだというから、清少納言とよく似ている。二十代の半ば頃には父の任国である越前に同行していたようで、長徳四年(998)に帰京してやはり受領層の藤原宣孝と結婚、二十六歳の頃である。 二十九歳であったという説もあるが、いずれにしても当時としてはかなり晩婚であった。
翌年には一女(後の大弐三位)を儲けたが、三年後には夫を亡くしている。
長保三年(1001)のことで、この頃から「源氏物語」を書き始めたとされ、二年ほどで完成したらしい。
紫式部が中宮彰子のもとに出仕したのは寛弘二年(1005)末のことで、(次の年という説もある)すでに「源氏物語」が話題になっていて、それにより道長に勧誘されたものであろう。
「源氏物語」を書き上げるからには、宮廷との直接あるいは間接の接点があったと考えられるが、正式な宮廷デビューはこの時なのである。清少納言は、すでに四年ほども前に出仕を辞しているのである。
「枕草子」の完成は、一応長保三年(1001)頃には完成し、さらにその後も若干書き加えられているが、最初に宮廷に知られるようになったのは、長徳二年(996)に源経房が持ち出したことが切っ掛けとされており、「源氏物語」が書き始められる頃には、すでに作品として認知を受けていたと思われる。
二人の仲が悪い云々の一番の根拠は、「紫式部日記」の中で、清少納言について「深くもない漢詩文の知見をひけらかす」と酷評していることにある。
しかし、清少納言は紫式部について書いている部分は全くない。「枕草子」の中で、紫式部の夫となった宣孝について、その奇抜さを皮肉っている一文があるが、大分前のことで紫式部を意識してのものではない。ただ、紫式部はその一文を見ている可能性は高い。
したがって仲が悪い云々は、紫式部が一方的に感じていたことで、清少納言がその一文を書く段階では、紫式部も「源氏物語」も全く意識していなかったはずである。
紫式部は長和三年(1014)始め頃までは宮仕えをしていたと思われるが、その後消息が絶えている。この頃に死去したとも、寛仁三年(1014)頃に死去したとも言われている。
清少納言は、宮仕えを辞した後、再婚した夫とともに国守夫人として摂津に赴いたらしい。ただ、夫の棟世はほどなく他界したようである。晩年は、亡父清原元輔の山荘のあった京都東山辺りに住んだらしい。そして、かねてから交流のあった藤原公任や、彰子付きの女房である和泉式部や赤染衛門らとも交流があったとされるが、紫式部の名前は出てこない。
また、清少納言が晩年零落したという説もあるようだが、清原家は健在であり、息子の橘則光も国守となっていることなどから、宮廷時の華やかさを失った生活ということであって、著しい零落などは考えにくい。
いずれにしても、悲劇的な最期を迎えた中宮定子に仕えた清少納言の作風は「陽」といえるのに対して、栄華をほしいままにした中宮彰子に仕えた紫式部の作風はそれに比べれば遥かに「陰」であることも、二人を対比させたい要因になっているようである。
そして、この二人の才女の娘たちであるが、紫式部の娘は、母の跡を継ぎ彰子の女房として出仕している。母と違って社交的な女性であったらしく、多くの浮名を残したようであり、歌人としても優れ、その和歌は小倉百人一首にも採用され今に伝えられている。さらに、万寿二年(1025)には、のちの後冷泉天皇の誕生とともにその乳母に任ぜられ、即位後従三位が与えられている。大弐三位という女房名は、夫の官職とともに付けられたものと思われるが、従三位といえば男性なら公卿と呼ばれる身分なのである。
大弐三位は、八十三歳の頃まで長寿を保ち、母を超える栄華を手にしたようである。
一方の清少納言の娘である小馬命婦も、彰子のもとに仕えている。
清少納言をよく知っている道長がその代わりのように出仕を求めたのか、あるいは清少納言が宮中に出向いて娘の出仕を願い出たものかもしれない。
ただ、その後小馬命婦の消息は、残念ながら全く探ることができない。歴史の表舞台に立つことはなくとも、むしろそれゆえに、穏やかな生涯を送ってくれたものと願うばかりである。
伝えられている小馬命婦の和歌は、「後拾遺和歌集」に載る一首のみである。
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