待つほどに夏の夜
いたく更けぬれば
惜しみもあへぬ
山の端の月
(詞花集 巻第二 夏 77)
源道済 みなもとのみちなり 生年未詳~寛仁三(1019)
光孝源氏。公忠の曾孫。信明の孫。従五位下能登守方国の子。子に大宮禅師懐国がいる。
長徳四年(998)、文章生より宮内少丞に転任。長保三年(1001)、蔵人に補せられる。寛弘元年(1004)式部大丞。長和四年(1015)、筑前守兼大宰少弐となり、寛仁三年、任国の筑前で没した。最終官位は正五位下。
長保三年(1001)の東三条院詮子四十賀屏風歌、同五年の道長家歌合などに出詠。一条朝頃の代表的歌人の一人で、花山院のもと、藤原長能とともに拾遺集撰集に関わったらしい(『和歌色葉』は道済を同集撰者とする)。赤染衛門・能因法師・藤原高遠・和泉式部などとの親交が窺われる。大江以言の弟子で(『江談抄』)、詩文にも優れ、『本朝麗藻』『和漢兼作集』などに作を残す。
家集『道済集』、歌学書『道済十体』がある。拾遺集初出。後拾遺集の主要歌人。勅撰入集五十六首。中古三十六歌仙。
平安朝第6番目の勅撰(ちょくせん)和歌集。10巻。崇徳院(すとくいん)の下命で、藤原顕輔(あきすけ)が撰進した。1144年(天養1)下命ののち7年を経て、51年(仁平1)に完成、院の意志でさらに7首を削って409首の第二次精撰本が完成。もっとも小規模な勅撰集である。顕輔の撰集は、前代歌人を重視し、冒険を避けたが、崇徳院はことに歌道に熱心で、当代の新風も摂取、撰集資料源にあてるべく「久安(きゅうあん)百首」を催すなどの意欲をみせていたため、集のできばえには不満を抱いたらしい。顕輔も新風に理解を示す幅広い歌人であったが、晴儀の勅撰集には、洗練された格調の高い叙情、清新で気品をたたえた優美な観照を尊んだため、集の基調はやや保守的な姿にまとまった。それでも古今風の機知の安易な継承にたつ諧謔(かいぎゃく)や、新奇な表現も散見され、集の品格を損ずることにもなっている。藤原俊成(しゅんぜい)、忠通(ただみち)、家成(いえなり)、教長(のりなが)ら、当代歌人の軽視や、古今尊重の不徹底に対する種々の論難も現れ、これに対抗して寂超の『後葉集』、藤原教長の『拾遺古今』が撰ばれた。
巻一 「春」 藤原顕輔(あきすけ)撰 写 国立国会図書館所蔵
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