月月に月見る
月は多けれど
月見る月は
この月の月
詠人不知
(一挙博覧 巻第二 53)
古来、人々はこの夜の月を愛でて、供え物などしてきました。その源は、七夕と同じように中国ですが、唐の後半ごろから詩にも詠まれています。中でも有名なのは、11世紀始めに編纂された和漢朗詠集にある、「八月十五日の夜、禁中に独り直し月に対して元九を憶う」という長い表題の白居易(白楽天)の作品です。
八月十五日夜禁中獨直對月憶元九 作:白居易
銀臺金闕夕沈沈
獨宿相思在翰林
三五夜中新月色
二千里外故人心
渚宮東面煙波冷
浴殿西頭鐘漏深
猶恐清光不同見
江陵卑溼足秋陰
和訳したものをここに載せます。
銀大門やきらびやかな宮殿では、夜が静まり更けていく。
私は一人で宿直をし、あなたのことを思いながら翰林院にいる。
十五夜の空に昇ったばかりの月の光を
二千里離れた土地にいる古くからの友人は この月の光をどう感じているのか
元縝のいる江陵にある渚宮の東側では、もやの立ち込める水面が冷たく
私のいる宮廷にある浴堂の西の辺りでは、
時を告げる鐘や水時計の音が深く響いている。
やはり恐れるのは、この清らかな光を、私が眺めているのと
同じように君が眺められていないのでは、ということだ。
君のいる江陵は土地が低く湿気も多く、秋の曇り空が多い。
月や星に臨んだときに、遠くにいる誰か(恋人?家族?友人?)が、やはり、この月、星を同じ思いで眺めているかもしれない。そのように遠くにいる人へ思いを馳せることがあります。
この一体感は、天体をみるときの独特の感性かもしれません。
さて、この白居易の詩の一節は、源氏物語の「須磨」の巻にて光源氏がこの詩を朗詠する、という形で登場します。
こころならずも都をしりぞいた光源氏が、この満月をみて、都の華やかさを懐かしみ、恋慕する藤壺や兄、朱雀帝を思い出す、という名場面に登場します。白居易においては、”清らかな”という形容の月の光ですが、光源氏にとっては、都の煌びやかな生活を彷彿とさせる懐かしくも深い寂しさを誘う存在だったのでしょう。
小説全体にも、名月は4回登場し、その場面場面の「寂しさ」「懐かしさ」「はかなさ」を象徴し、月は日本文学の「哀れ」を感じさせる筆頭の対象だったのでしょう。
満月は毎月やってきますが、この中秋のちょっとひんやりした澄んだ空気の中で眺める月は最高ですね。(*◡̈)
十三夜の月
月周期の第4段階です。上弦の月と満月の間に起こります。この満ち欠けは、月がより照らされるようになることを表しており、この満ち欠けの始まりでは、月が半分ほど照らされているように見えます。その後、満月になるまで、照らされる領域が徐々に広がっていきます。
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