昔、男、初冠(うひかうぶり)して、平城(なら)の京、春日の里に、しるよしして、狩にいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みにけり。この男かいまみてけり。おもほえずふるさとにいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の着たりける狩衣(かりぎぬ)の裾(すそ)を切りて、歌を書きてやる。その男、しのぶ摺(ずり)の狩衣をなむ着たりける。
春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れかぎり知られず
となむ、おひつきて言ひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ。
陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに
といふ歌の心ばへなり。昔人(むかしびと)は、かくいちはやきみやびをなむ、しける。
(伊勢物語より)
〔近世初期〕写 1冊 24.9×19.0cm <WA16-29>室町時代の歌人正徹(1381-1459)
による写本の転写。書名は原表紙の書き
紙質が異なり、第4丁以下には朱墨で注を書き入れる。巻末に「戸部尚書」
すなわち藤原定家(1162-1241)の本奥書2種、祖父定家の真筆本を一字も違えず書写したと
する
正徹の奥書がある『伊勢物語』写本は、かなり伝存している。展示本は清原家伝来。なお、
藤原定家は『伊勢物語』を何回も書写しており、今日伝わる写本はほとんど定家本の系統である。
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