静けさの哲学――ハイデガーと禅の出会い、日本文化の深奥をめぐって
日本文化と聞いて、皆さまはどのような光景を心に描かれるでしょうか。
お茶の席、絹の着物、神社仏閣のたたずまい、あるいは、四季折々にうつろう自然の美しさ――。
まず目に映るそのような麗しき風景が、静かに胸に浮かんでくるかもしれません。
けれども、そうしたかたちあるものの背後には、もっと深く、ひそやかに、「生きるとは何か」という問いが流れております。
その精神性を象徴するもののひとつに、日本の禅がございます。
禅は、「いま、ここ」にこころを澄ませ、あるがままに生きることの尊さを説いてまいりました。
たとえば、庭を掃き、湯を沸かし、食を味わう――。
そんな日々のたしなみひとつひとつに心を込めて向き合うこと。
その慎ましく丁寧な営みにこそ、人は「生きる」ことの意味を見出すのだと、禅は教えてくれるのです。
慌ただしく時が過ぎゆく現代社会にあって、この教えは、私たちがふと足を止め、みずからの在りようを見つめ直すための、静かな手がかりとなるでしょう。

Photograph of Martin Heidegger. Detail of a phototograph entitled : "W 134 Nr. 060678b - Hausen: Festakt, in der Reihe, Kultusminister Storz, Prof. Heidegger, Dichtel". Additional reference : Teilbestand W 134 (Neg. BaWü), Teil 1 - Fotosammlung Willy Pragher: Filmnegative Baden-Württemberg, Teil 1.
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実はこの禅の精神に、遠く海を隔てたヨーロッパの偉大な哲人も、深くこころを動かされました。
そのひとりが、ドイツの哲学者マルティン・ハイデガー(1889–1976)でございます。
ハイデガーは、ドイツ南西部の小村・メスキルヒに生まれました。
幼少期はカトリックの信仰に育まれ、青年期には神学を志しますが、次第に宗教を超えて「存在」の根源に関心を抱き、哲学の道へと進みます。
1927年に刊行された主著『存在と時間』において、彼は「人間とは」「存在とは」いかなるものであるのかという根本的な問いに、正面から取り組みました。
その思索の中で、彼は人間が「死」を避けることのできぬ存在であることを凝視し、そこからむしろ「いま、この時をどう生きるか」という切実な問いを導き出します。
「限りあるいのちゆえに、瞬間にこそ真実が宿る」――
このような彼の洞察は、日本の禅の教えと深いところで響き合っているのです。
ハイデガーと禅――
時も国も異なるふたつの精神が、どのように出会い、交わっていったのでしょうか。
◆
その架け橋となったもうひとりの人物に、ハイデガーの弟子であり、心理学者・心理療法家でもあったカールフリード・グラフ・デュルクハイム(1896–1988)がございます。
デュルクハイムは、ドイツ・バイエルン地方の名家に生まれ、十八歳で第一次世界大戦に志願し、戦地に四年を過ごします。
戦後はミュンヘン大学、ついでキール大学にて哲学と心理学を修め、博士号を取得いたしました。
けれども、母方の祖母がユダヤ系であったことから、ナチス政権下において学問の場を追われるという運命をたどります。
その後、文化外交官としての能力を見出され、1938年に日本へ派遣されました。
帰国を挟みつつ、1940年から終戦後の1947年にかけて、日本に長く滞在いたします。
この時期、彼は禅と出会い、深い感銘を受けました。
座禅や岡田式静坐法など、身体とこころをひとつに調える実践に身をゆだね、「存在に目覚める」道を、体をもって体得していきます。
後年、デュルクハイムはこう語っています。
「ハイデガーが求めていた“本質的な存在への目覚め”は、日本の禅の中にすでに生きていた」と。
帰国後の彼は、禅の精神と身体的修練を融合させた独自の療法をドイツ国内に普及させ、多くの人びとに新しい生の在り方を示してゆきました。
こうしてハイデガーの哲学は、日本の禅と深く交わり、デュルクハイムの手を通して、ふたたび西洋に根づいていったのです。
◆
日本文化は、決して伝統の美や形式だけにとどまりません。
その奥底には、「生きるとは何か」という普遍的な問いが、静かに、しかし力強く流れつづけております。
禅の教えも、ハイデガーの哲学も、デュルクハイムの実践も、いまを生きる私たちに、深いまなざしで語りかけてくるのです。
――あなたは、《いま》を生きておられますか。
参考文献
- マルティン・ハイデガー 著、高田珠樹 訳『存在と時間』作品社、2013年
- カールフリード・グラフ・デュルクハイム 著、下程勇吉 監修『肚―人間の重心』麗澤大学出版会、2003年
- Karlfried Graf Dürckheim, Zen and Us, Arkana Publishing, 1991.
『存在と時間』——未完の書に託された哲学の問い
『存在と時間』(そんざいとじかん、"Sein und Zeit"、1927年)は、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーが著した代表的な書物であり、彼の思索の核心が凝縮された作品として広く知られております。
この書物の目的は、巻頭に記された言葉に端的に示されております。すなわち、「『存在』という語の意味に対する問いを、具体的に仕上げることこそが、本書の論述の意図である。あらゆる存在理解を可能とする地平としての時間を、学として解釈することが、さしあたっての目標なのである」と記されているのです。
ハイデッガーは、本書において解釈学と現象学という方法を手がかりとし、「何かが存在するとはいかなることか」という、アリストテレスの『形而上学』以来の根源的な問いに新たな角度から迫ろうといたしました。もっとも、実際に刊行されたのは、序論に記された全体構想のうち、三分の一ほどにとどまっております。それにもかかわらず、『存在と時間』は実存主義をはじめ、構造主義やポスト構造主義といった二十世紀の哲学思潮に、計り知れないほどの影響を及ぼしたのでした。
成立の背景
本書は、エトムント・フッサールが創刊した『哲学および現象学研究のための年報』第八巻(1927年)において世に出されました。当時、ハイデッガーは師であるフッサールとのあいだに、すでに見解の相違を抱えていたものの、出版に際しては「尊敬と友情の念をこめて」献辞を捧げております(もっとも、この献辞はナチス政権下の1942年に刊行された第五版では削除されております)。
序論第二章第八節「論証の構図」において示される本書の構成概要は、おおよそ以下のとおりです。
第一部 現存在の解釈と時間の解明
第一編 現存在の基礎分析
第二編 現存在と時間性
第三編 時間と存在
第二部 存在論の歴史の現象学的解体
第一編 カントの時間論について
第二編 デカルトの「我あり」と「思う」について
第三編 アリストテレスの時間論について
しかしながら、実際に執筆されたのは第一部第二編までであり、そこで論じられているのは現存在と時間性の問題にとどまっております。ハイデッガーが序論以降、繰り返し言及する「存在一般への問い」を本格的に論じると見なされるべき〈本論〉は、第一部第三編「時間と存在」において展開されるはずでした。しかしながら、その内容がいかなるものであったのか、また、なぜ執筆が中断されたのかについては、長らく謎に包まれてまいりました。
ナトルプ報告
1923年の時点で、ハイデッガーが『存在と時間』の草稿をすでに認めていたことは、彼自身の証言などから明らかとなっております。その年、彼はフライブルク大学の非常勤講師からマールブルク大学への転任が決まっており、その折、執筆中の著作の構想をまとめた論文を審査資料として提出するよう求められました。こうしてパウル・ナトルプに宛てて提出されたのが、『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』と題する論考であり、いわゆる「ナトルプ報告」として知られております。
この報告が『存在と時間』の初期草稿にあたるのではないかという推測がある一方で、その関連性に疑義を唱える声もありました。しかし、当該文書が長らく所在不明であったため、確証は得られておりませんでした。
ところが1989年、マールブルク大学と並行してハイデッガーを招聘しようとしていたゲッティンゲン大学のゲオルク・ミッシュに提出された同内容の論考が発見され、その記述内容から、「ナトルプ報告」こそが『存在と時間』の初期草稿であったことが確認されました。
そこには、アリストテレスの読解を通して古代ギリシアより中世、近代へと至る存在論の通史的再解釈が示されており、ひいては西洋哲学全体の読み直しが意図されていることが明らかとなります。問題の第一部第三編「時間と存在」は、まさしくこの歴史的考察の土台となるものであり、序論はその準備段階にすぎないこと、ひいては刊行された『存在と時間』は、長大に膨れ上がった序論が本論に至る前に中断されたものであることが、今日では広く認められております。
未完のままに
1927年の初版には「上巻」の文字が掲げられておりましたが、ハイデッガーは1953年の第七版よりこれを削除し、後半部分の完成を断念する意思を明確に示しました。その理由として彼は、後半を書き足すには前半の全面的な改稿が避けられないこと、存在への問いを放棄したわけではないこと、そしてその探究については同年刊行の『形而上学入門』を参照してほしい旨を述べております。
かくして『存在と時間』は、未完成のままながら、現存在についての精緻な分析と独創的な解釈を成し遂げました。ただし、序論において高らかに掲げられた「存在一般の意味の解明」という目標には、終ぞ至ることはありませんでした。それでもなお、ハイデッガーの野心的な企図は、その後の著作において、かたちを変えつつ、根気強く追求されつづけることとなったのです。
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