雲心月性...

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揺曳する時の感性――小林秀雄とベルクソンの時間観に寄せて

揺曳する時の感性――小林秀雄ベルクソンの時間観に寄せて


                               宗像多紀理

 

 小林秀雄が生涯を通じて見つめ続けた「美」と「真実」の探究において、時間という観念は決して副次的なものではなかった。彼の批評文の底流には常に、対象のうちに潜む「時の気配」をすくい取ろうとする感受性が宿っており、そうした姿勢はしばしばベルクソンの時間論と共鳴し合うものであった。本稿では、ベルクソンが『時間と自由』において提示した「持続(durée)」という独自の時間観に寄せつつ、小林秀雄の批評における時間の表象とその美学的含意とを照射する。

 

 ベルクソンは、時計の刻む均質な時間とは異なる、連続的かつ質的な「持続」の時間を提唱した。彼にとって、時間とは分割可能な空間的イメージではなく、内的意識の流れに即した、切れ目のない変容の連鎖であった。このような時間認識においては、知性よりも直観が重視される。直観とは、対象を外側から分節するのではなく、自らをその内部へと浸透させるような把握である。ベルクソンはこの直観によってこそ、生きられた時間の豊かさを経験できると説いた。

 

 小林秀雄の批評においても、こうした直観的時間感覚は顕著に表れている。たとえば『本居宣長』において、彼は「もののあはれ」という概念を、単なる感情移入や感傷としてではなく、時の移ろいのなかに現れる真実の感得として捉えようとする。「もののあはれ」は、瞬間的な情緒の喚起にとどまらず、歴史や言葉のなかを流れる無形の時間の深みを伴うものである。このような美意識は、ベルクソン的な「持続」と響き合うものであり、小林の批評的直観は、まさにその「持続」に耳を澄ませようとする営みであった。

 

 さらに興味深いのは、小林が批評という営為において、論理の明晰さよりも、対象との「出会い」や「感応」を重視した点である。これは彼のいう「直感」に近い態度であり、対象を分析的に分解するのではなく、その全体性と揺らぎを、そのまま受け入れようとする感性である。ベルクソンの哲学における「直観」もまた、対象の深層に沈潜する態度を意味しており、両者のあいだには精神の構えにおいて深い通底がある。

 

『無常ということ』において、小林は、鴨長明の『方丈記』を論じながら、日本人の自然観や死生観に潜む時間意識の繊細さに触れている。そこでは、「流れ行くもの」としての存在が、永遠と刹那とのあわいにおいて捉えられており、このような認識は、「持続」という時間概念と親和的である。つまり、断絶された現在の積み重ねではなく、過去と未来とが複雑に交錯する現在の厚み――そうした時間の感性が、小林の批評には常に宿っている。

 

 また、小林が繰り返し引用した和歌や古典文学の一節には、「時間の質」を問う視線が織り込まれている。たとえば、「散るをいとはば 咲かましものを」といった詠嘆には、無常の中に咲く花の一瞬に、永遠が封じ込められているという逆説が漂う。これは、ベルクソンが『創造的進化』で語った、「時間のなかに創造がある」という発想に通じるものがあり、創造とはまさに、繰り返しのなかに現れる唯一性への感応なのであろう。

 

 このように見てくると、小林秀雄ベルクソンは、方法や言語の差異を超えて、「時間」に対して極めて近しい感性を抱いていたと考えられる。小林にとっての「批評」は、すでに出来上がった意味を分析的に解体することではなく、対象のなかにまだ言葉にならない「時間の声」を聴き取ることであった。そしてその声とは、常に「持続」として、私たちの内に流れ続けているのである。

 

 この「時を聴く耳」とも呼ぶべき批評的態度こそが、今なお小林の文体に生き続けている。そしてそれはまた、ベルクソンが描こうとした「創造の時間」の在り処とも重なってゆく。刹那にして永遠、断片にして全体――そうした逆説の只中に、美と真実のひそやかな声は、今もなお、私たちを待ち受けているのではなかろうか。

 

【参考文献】


 

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