来ぬ人を恨みも
はてじ契りおきし
その言の葉も
情ならずや
(詞花和歌集 巻第八 恋下 244)
法性寺入道前関白太政大臣
(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん。1097年~1164年)
摂政関白藤原忠実(ふじわらのただざね)の息子、藤原忠通(ふじわらのただみち)です。25歳で関白となり、氏の長者(一族の長のこと。藤原氏の総帥)として、太政大臣従一位に至りました。
関白を3度、太政大臣を2度、摂政を3度も歴任した大政治家です。幼い頃から和歌を好み、温厚で、詩歌や書道、管弦にも才能を示しました。
異母弟の頼長を愛する父と不仲になり、保元の乱の時には後白河天皇側につき、題詠を命じた77番・崇徳天皇とは敵同士として戦います。崇徳上皇とその弟の後白河天皇の権力闘争、また忠通と頼長兄弟の藤原家の家督争いに、当時勢いを持ちはじめた源氏と平家の武士勢力が二手に分かれて戦ったのです。結局、先手を打った後白河天皇と忠通側が勝利し、崇徳上皇は讃岐に流され、頼長は戦死しました。
父の忠実については、忠通が親不孝をするつらさを述べて、配流の罪を軽くしたといいます。この乱の恩賞として藤原一族で一番えらい「氏長者(うじのちょうじゃ)」と呼ばれるようになりました。しかし、可愛がられていた崇徳天皇ではなく後白河天皇側についたことで思うところがあったのでしょう。晩年には出家して政治を離れ、法性寺(京都の東山)のそばにある別荘に住んだので、「法性寺殿」と呼ばれました。
75番・藤原基俊や74番・源俊頼の支援者として院政期の歌壇を盛り上げ、自邸に歌人を集めて歌合や歌会を開きました。「金葉集」以下の勅撰集に69首入集。漢詩集「法性寺関白集」、日記「法性寺関白記」、家集「田多民治(ただみち)集」があります。さらに、古典から当代までの歌合を集成して、後世に伝えるための大事業「二十巻本類聚(るいじゅう)歌合」を完成させました。一部は失われましたが国宝として現存しています。95番・慈円は6番目の息子です。
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